【元・全日本プロレス中継アナウンサー】倉持隆夫「作られたスポーツを実況するということ」

日本テレビの元アナウンサー、倉持隆夫は全日本プロレスの実況アナとして18年間にわたって幾多の名勝負を“倉持節”で彩ってきた。そして実況席という最もリングに近い場所から見続てきた彼だからこそ知り得るプロレスの物語もある。輪島の苦悩、ハンセン電撃乱入、シーク襲撃、親友・ジャンボ鶴田の死……。倉持いわく“作られたスポーツ”の世界は他に類を見ない壮絶な人間模様があったのだ。

 

 

――倉持さんはスペインに移住されていましたが、いまは帰国されてるんですね。
 

倉持 1年半前にスペインから戻ってきましたね。向こうには13年間いました。やっぱり日本人だから向こうで死ぬわけにはいかないだろう、と。それと女房の義理の母親が97歳ということでね、死に目だけどは見たいということもあって。でも、面倒を見てるうちに元気になっちゃって。いまでは「100歳まで生きる!」と言ってるんですよ(笑)。


――大台を目指してるんですね(笑)。今日は倉持さんが全日本プロレス中継のアナウンサーだった時代のお話をうかがいたいんですが、あの当時はアナウンサーは、プロ野球、ボクシング、プロレスと、スポーツ中継の実況がメインでしたね。


倉持 そりゃあ、やっぱり日本テレビですから。読売ジャイアンツを抱えてますので、中でも一番の花形はプロ野球中継でしたよね。


――プロ野球のシーズン中は巨人戦が全試合放映されてましたね。


倉持 いまは時代が変わっちゃったので、地上波で野球中継がほとんどないじゃないですか。やってもBSくらいでしょ。ボクらの時代からかな、スポーツ実況が専従制になったのは。野球は誰々、ボクシングは誰々とね。


――スポーツによってそれぞれ担当が決まっていたわけですね。


倉持 そうなると、ほかのスポーツをしゃべるわけにはいかなくなるんですよ。ほら、収録日が重なっちゃうこともあるじゃない。それにただ放送席に座ってしゃべるだけではいけないんですよ。アナウンサーには入念な取材、資料調べがありますから。ひとりでそのスポーツの看板を背負ってるようなもんですよね。空いた時間なんかはスタジオでニュースを読んだりしますけども、スポーツを担当しちゃうと、ほかの番組をいくつも担当することはできなくなるんですよね。


――倉持さんはプロレス以前はボクシングやキックボクシングの実況をやられていたそうですね。それは安部譲二さんが解説をやっていた時代で。


倉持 あとは柔道、東京マラソンなんかもやりましたね。でも、プロレスが一番長くて18年もしゃべってましたからね。プロレスはやたらと技が多くて、1000種類近くあると言われてますから、おぼえるのが大変で。しかもカタカナ表記と日本語表記が違ったりするわけでしょ。


――「ダブルアーム・スープレックス」が「人間風車」だったり。


倉持 日本語名はこっちが自由につけられるところもあるんだけど。技だけを覚えるのに1年近くかかりましたよね。そのために全日本以外のプロレス会場に足を運んでいましたし、レスラーにも直接教わるんですよ。「いまの技はなんて言うの?」とか「どこが痛いんだ?」とか。ロープに振られたレスラーが跳ね返ってくることも不思議だったんですよ。レスラーに「なんで返ってくるの?」とか聞いてね。


――石直球ですね(笑)。プロレスは見ただけではわからない技も多いですし。


倉持 それから見よう見まねでしゃべりだしたんですけど、ボクはボクシングやキックボクシングのときに選手の個性を表現するアナウンサーだったんですね。試合の流れをただ実況していても面白くない。「この選手はなんのために闘ってるんだろうか?」ということを伝えないと視聴者も感情移入できない。思想、生活環境、未来の夢なんかを盛り込んでしゃべらないと。だから選手取材をしなきゃいけないし、そうやって選手と仲良くなって付き合いが深くなるんですよ。


――プライベートの付き合いが実況の厚みに繋がっていったんですね。倉持さんはジャンボ鶴田さんと保子夫人の仲を取り持ったんですよね?


倉持 そうそう(笑)。ジャンボとはもの凄く仲良かったから、全面的に自分のプライバシーを見せてくれて。あるとき「倉さん、明後日、神戸まで一緒に行ってよ」と言うんですよ。飛行機のチケットも渡してきてね、「ホテルも取ってあります」と。要は結婚したい相手がいるんだけど、ボクに説得してくれというんですよ。ジャンボはフラレちゃったんです(笑)


――保子さん側は鶴田さんとの結婚には大反対だったんですね。
 

倉持 日清製粉の親戚のお嬢さんとは聞いてるんですけど、本人、向こうの両親、親戚がプロレスラーとの結婚を反対している、と。それで「倉さん、説得してくれ」と。いくらジャンボ本人が言ってもプロレスラーの言葉はなかなか、ね。


――日本テレビのアナウンサーだと説得力がありますね(笑)。
 

倉持 それで神戸の喫茶店を6時間くらい渡り歩いてね。両親には会えなかったんだけど、ご本人を説得して。鶴田の学歴から、将来の展望まで。「日本テレビが責任を持って面倒見ますから!」と(笑)。


――ハハハハハハ!それは空手形じゃなくて、鶴田さんが全日本に入団する条件として「日本テレビのキャスター」という話もあったんですよね?


倉持 あったみたいだよ。それくらいジャンボ鶴田は別格の扱いだったわけですよ。全日本の道場の土地だってジャンボの持ち物よ。毎月賃料を鶴田に払ってたんだから。


――そこまで用意したから鶴田さんは全日本入りを選択したんですね。


倉持 ジャンボは死んじゃいましたけど、プロレスラーから大学教授になって、そこからキャスターの道もないわけじゃなかったわけだから。亡くなったときもね、フィリピンのウチの支局が「ジャンボ鶴田らしき人物が手術を受けているらしい」と情報をキャッチして。「ひょっとしたら死んでるかもしれないんだよ」と。そこで俺が支局員と密に連絡を取り合っていたら「倉さん、鶴田さんは死んでいます」と。棺に入ったジャンボも、その死に顔も撮ってあると。それで緊急ニュースを流したんです。


――倉持さんは親友の死の最前線に立っていたんですねぇ。


倉持 あのとき「ニュースにしてもいいけど、映像は流さないでくれ」って奥さんから頼まれて。電話で泣きながらね。「主人はプロレスラーは死に顔を見せるもんじゃない、強いイメージを崩したくないと言ってたんです。お願いですからやめてください」と。でも、そこは報道ディレクターに負けました。「ニュースバリューがあるから流すんだ」ということでね。ボクとしても「遠くからのショットならいいけど、死に顔はやめてくれ」と頼んだんですけど、やっちゃいましたね、日本テレビは……。そこは俺の立場ではどうにもできないし、ジャンボが亡くなったのは事実だしね。それから奥さんは一切、口を聞いてくれなくなった。「約束を破った男」と思われてるでしょう。


――遺族の感情としては仕方ないですよね……。
 

倉持 ボクはジャンボの結婚式の司会までやってるんだけど、あの件以降、没交渉だよね……。


――話は実況に戻しますが、なりたての頃は大変でしたか?

倉持 ありきたりの資料で取材をしていても、同じフレーズしか出てこない。だからプロレスの実況をやるということで、プロレスを育んだアメリカという国自体も勉強しましたよ。アメリカにも田舎があるんだなって初めて知りました。当時のボクにはアメリカってのはニューヨークの華やかなイメージしかなかった。プロレスが非常に盛んな南部方面、テキサスやジョージアまでいくと本当に田舎なんでよね。東京が大都会に見える。ファンクスの試合のときは何度も「アメリカの田舎!」というフレーズを使いましたよ。この言葉が大好きで(笑)。


――ハハハハハハ! 


倉持 ファンクスの牧場に行ったときは、ぶったまげましたよ。あまりにも広すぎて!(笑)。1日で回りきれないし、なんたって車で移動なんだから。


――当時のアメリカのプロレスは各地区のマーケットも盛況でしたね。


倉持 アメリカ本土を回りましたけど。もうファンクスのホテルの部屋の前に何人も女の子が待ってるんですよねぇ。「次は私の番!」なんて言ってね(苦笑)。

 

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