【全文公開】藤田和之…こんなプロレスラーはもう2度、現れないだろう。だからプロレスで燃え尽きて欲しい

藤田和之のMMA復帰戦は完敗に終わった。


中国・河北体育館で行なわれたMMAイベントROAD FC。藤田は160キロの巨漢アオルコロの前に1ラウンドTKO負けを喫した。これで藤田和之はMMA7連敗。デビュー戦以外の相手に勝利したのは、2006年のPRIDE無差別級GPのジェームス・トンプソン戦までさかのぼってしまう。年齢による衰えもあって、野獣と恐れられたパフォーマンスは発揮できないでしまっている。


この敗戦から4日後の11月16日、藤田はプロレスの試合に出場。12月にもMMAの試合が控えている。いくら1年間休養していたとはいえ、ダメージの蓄積が目に見えている47歳の戦士には過酷な連戦だ。

 

野獣は何を考え、こんな茨の道を歩むのか。藤田和之は常にメディアをはぐらかし、掴みどころがなかった。彼を取り巻く環境も特殊だった。プロレスのリングでは“政治”に巻き込まれ、誰かの“主張”の槍や盾となっていたという印象が強い。

 

それは藤田和之の立身出世が前代未聞の手段で成し遂げられたことに起因する。日本人離れしたヘビー級の体格と、全日本選手権を制覇したレスリングテクニックを誇った藤田は、93年に新日本プロレスに入団する。しかし、90年代当時の新日本プロレスには闘魂三銃士や永田裕志ら第三世代などが活躍。若手の藤田が入り込む隙間はなかった。

「このままではトップに立てない」

藤田は自らの腕っ節を活かすためにリングス移籍を決意。新日本上層部や前田日明からの了承を得るが、土壇場で藤田の実力を高く評価していた猪木の引き止めにより、彼の運命は大きく変わることになる。 

藤田の向かう先は猪木がアドバイザーというかたちで携わるPRIDEだった。

 
2000年4月12日PRIDEGPのハンス・ナイマン戦でMMAデビューを果たした藤田は、2戦目にして「霊長類ヒト科最強」マーク・ケアーを下すという大金星を挙げる。ケン・シャムロックやギルバート・アイブルも撃破。この間、たった1年間も満たない。充分なMMAのトレーニングをこなしていないプロレスラーが、経験で優る外国人の猛者を次々に破っていく。アキレス腱断裂という大怪我によりスピードを失っても、持ち前のパワーで敵に向かっていった。右フックで皇帝ヒョードルもぐらつかせた場面はいまだに語り継がれている。

こんなプロレスラー、いや、日本人ヘビー級ファイターはもう2度現れないかもしれない。まさに怪物だった。

 

MMAでの活躍により藤田和之は一躍、ストロングスタイルの新しいアイコンに君臨。プロレスのリングにも凱旋することになるが、大歓迎されたわけではない。なぜだ。こんなに強いプロレスラーが好意的に迎えられないなんて。プロレスラーに強さは必要ないのか……いや、そうではない。権謀術数でプロレス界を支配しようとするアントニオ猪木と、その周囲の思惑に藤田は動かされていた。

 

新日本プロレス出身のプロレスラーが総合格闘技に出場することは大きなビジネスとなり、藤田和之のあとを追うレスラーが続出した(しかし、結果はいずれも芳しいものではなかった。藤田和之が規格外だったのだ)。興行の切り札を手にした猪木事務所によるPRIDEやK−1との駆け引き、新日本プロレスへのマッチメイク介入……リング外の政治闘争がリング上にも反映されていく。猪木のせいで新日本プロレスは狂った、と選手や関係者、ファンたちは恨んだ。その暗黒時代のシンボルが藤田和之だったといえる。

 

目を覆いたくなる悲劇のひとつは、藤田和之が佐々木健介を相手に迎えたIWGPヘビー級王座の防衛戦だった。藤田が健介の背後を捕らえ、胴締めの体勢で寝転んだが、そのまま背中がマットにつき、レフェリーはスリーカウントを数えた。王座交代、新王者は佐々木健介。消化不良どころではない結末に観客は呆れ返り、健介のマネージャー北斗晶はバックステージで涙を流しながら椅子を蹴り上げ、新日本関係者に詰め寄った(とはいえ、北斗がこの結末をあらかじめ知らなかったわけがないので、健介が泥をかぶらないようにする必死のパフォーマンスではある。さすがは北斗だ)。

 

中邑真輔と相まみえた大阪ドームのタッグマッチは、猪木サイドの常識はずれな介入により、ファンは愛想をとっくに尽かしていた。大阪の風俗無料案内所には、同大会の招待券の束が無造作に置かれていた。中邑の顔面をおもいきり蹴り上げ、一線を越えかけた藤田和之の狂気に、視線を落とすファン皆無だった。

 

新日本プロレスから完全撤退した猪木一派が設立されたIGFのリングでも、藤田和之のプロレスにはグレーなままだった。ついに実現した小川直也との一騎打ちでは「橋本真也vs小川直也のシュートマッチ」の表面だけをなぞった“なんちゃってシュート”でお茶が濁された。やる、やらないで大揉めに揉めた諏訪魔戦では、リング外の話題ばかりが先行。最前線で身体を張る大日本プロレスの岡林裕二や関本大介の前に大きく株を下げてしまった。

 

MMAでは「猪木イズム最後の後継者」としてのロマンをいかんなく発揮した藤田和之。MMAファイターとしての功績は誰も異論はないだろう。しかし、プロレスのリングではよくわからない試合を、よくわからないままこなして、消化不良のまま去っていく。期待感は下がる一方だったので、殺気みなぎる試合をやったとしても、もう誰も見ていなかった(小川戦で大不興を買った後、澤田敦士を病院送りにする凄まじい死闘を見せつけたが、IGFの会場にプロレスファンは姿を表さなかった)。

 

「プロレスラーは強くなければいけない」という理想を身をもって証明したのは藤田和之である。プロレスラーとして怪物だった藤田がプロレスのリングではグレーな評価のまま晩年を迎えてしまった。小川直也やIGFの選手とは違って、藤田は新日本プロレス道場でプロレスラーの基礎は叩き込まれていたし、前座でも経験を積んでいたが、彼の取り巻く状況的にプロレスに正面から全力で取り組む機会があまりなかったこと、魅せられなかったことが悲劇だったのかもしれない。

 

引退宣言から1年の時を経て復帰した藤田が、最後に力を振り絞るべき場所は、さまざまな呪縛から解かれたプロレスのリングではないだろうか。同期の真壁刀義であり、因縁の諏訪魔であり、岡林たちに全力で向かっていくべきだ。47歳という年齢では、もう遅いかもしれない。プロレスがMMAより楽だと言ってるわけではない。ゼロゼロ年代を象徴するファイターであり、プロレスを背負って総合格闘技に乗り込んで栄光を掴んだ男が、まだら模様な評価のまま終わってしまっていいのか。

 

藤田和之――こんなプロレスラーはもう2度、現れないだろう。だからこそ全力でプロレスのリングで燃え尽きるべきだ(ジャン斉藤)

pagetop