格闘技という名の青春、完結編―― 「ミノワマン、家族と共に故郷パンクラスに帰る」の巻!!

パンクラス、PRIDE、DREAM……90年代、ゼロゼロ年代、そしてテン年代の現在も戦い続けるミノワマンインタビュー。生まれ育ったパンクラスで近藤有己と20年ぶりの再戦を果たす超人の現在を追ってみると、意外な現在が――。「美濃輪育久」時代から彼を見続けてきたプロ格者は最後まで読んでいただきたいです!

 

 

――ミノワさんは久しぶりの“故郷”パンクラス参戦になりますね(7月2日ディファ有明大会)。
 

ミノワマン(以下ミノワ) 14年ぶりなんですね。伊藤崇文さんのセコンドなんかで何度か会場には行ってたんですが。
 

――再びパンクラスに上がることは想像されてました?


ミノワ 「またあるのかなあ……」と思いながらも、時間が経つにつれて「もうないのかな……」って思うようになってましたね。


――パンクラスという格闘技団体は、ミノワさんが所属していた時代とはいろいろと変わっていますね。


ミノワ もう全然違いますね。


――そこに突然入り込むのはなかなか難しい。そういう意味では近藤(有己)さんとの試合はドラマ性も感じられて見やすいですね。


ミノワ 近藤さんとは20年ぶりの試合なんですね。


――総合格闘技で20年ぶりの再戦ってとんでもないことです。


ミノワ あまり聞いたことないですね(笑)。


――20年前の試合のことはおぼえてますか?


ミノワ おぼえてます、凄くおぼえてます。1997年8月9日、会場は大阪の梅田ステラホール。10分一本勝負、3エスケープ制の掌底ルールで。自分がパンクラスに所属して第1戦目の試合だったんです。


――ああ、ミノワさんにとって記念すべき試合だったんですね。
 

ミノワ その以前は誠ジム所属としてネオブラッドトーナメントに出ていたんです。7月20日にネオブラッドに出たあとに東京道場所属となり、パンクラス所属第1戦が8月9日の近藤さんとの試合で。近藤さんは当時キング・オブ・パンクラシストだったんですね。


――いきなりチャンピオンと!


ミノワ だからよくおぼえてるんです。


――ネオブラッドでは3位でしたけど、成績次第で入団できるということだったんですか?


ミノワ パンクラスの入門テストも受けていましたし、自分が所属になりたいことは伝わっていて。内容や結果で決まったと思うんですね。


【ここでミノワマンの子供が乱入】


ミノワ ……あ、ウチの家族です(苦笑)。


ミノワマン奥さん すいません。通りかかったら姿が見えたので。


――お世話になります! お子さんはいま何歳なんですか?


ミノワ 3歳ですね。


ミノワマン子供 パンチ、パンチ!(と叫びながらミノワマンにジャレる)


――ハッハッハッハッ。かわいいですね。

ミノワマン奥さん いまお仕事中だから帰りますよ。どうもオジャマしました。


――いえいえ。お父さんが格闘家であることはわかってるんですか?


ミノワ 格闘技は「パンチ」って感じですね(笑)。


――ああ、たしかにわかりやすいですね(笑)。話は戻りますが、ミノワさんはパンクラス入団時はすでにデビューしてましたから、練習生という立場ではなかったんですよね。


ミノワ 練習生兼、選手でしたね。自分が憧れたパンクラスの一員になれたので、すぐに頭を丸坊主にしましたし。渡辺大介さんと、やめてしまった練習生の3人で雑用をこなしてましたね。


――雑用は厳しくなかったですか?


ミノワ 大変でしたけど、それがあたりまえだと思ってましたね。プロレスの道場は掃除洗濯とか、雑用をこなすもんだと思ってましたので。


――当時のパンクラスは東京道場と横浜道場に分かれてましたが、行き先は選べたんですか?


ミノワ 選べなかったですね。


――東京道場は船木さんがトップでしたけど、船木さんが大のイタズラ好きですよね(笑)。


ミノワ いたずら好きな先輩方が多かったのですね(苦笑)。ただ……言っちゃいけないイタズラが多いんですよね。……言っていいのかな?


――皆さんそう言うんですよ!(笑)。度を超えたイタズラというか、明かしていいかどうかギリギリなものばかり。たとえば◯◯◯◯◯系ですよね?


ミノワ そうですそうです! 入団する前に何度か出稽古みたいなかたちで東京道場に練習に行ったことがあるんですよ。そのときにそれでトーナメントでやるんですよね(笑)。


――ハハハハハハハハハハハ! どんなトーナメントですか!(笑)。


ミノワ あのときはイヤでしたけど、いま振り返ると凄い世界だったなあと。いっぱいありましたよ、イタズラ。いっぱいありますけど、表に出していいのかわからないんですよね(苦笑)。


――いまは笑い話で片付けられない時代ですからね。パンクラスってミノワさんが入団した頃から、ルールも変わって競技化していくじゃないですか。


ミノワ 「なんでグローブを付けるんだろう?」って疑問でしたね。


――プロレスラーに憧れていたミノワさんからすると違和感があった。


ミノワ そうですね。セコンドだっていらないし、バンテージを巻くのは面倒くさいなって思ってたくらいですし。階級も分かれていきましたけど、当時は83〜84キロくらいなので、あと1〜2キロ落とせば当時のミドル級だったんです。でも、100キロの身体にしたかったんで減量とかは一切やらなかったですね。


――さすが超人追求ミノワマンです!


ミノワ 「せっかく作った身体なのになんで減量しなくちゃいけないの?」って。あえて落とさずに増やしてました。


――でも、東京道場は船木さん主導のバーリトゥード路線だったから、ミノワさんの肌には合わなかったんじゃないですか?
 

ミノワ 入団して1年半後にトレードという形で横浜に移ったんですね。それは環境を変えるという名目で2対2で。


――鈴木みのるさんの横浜道場はキャッチレスリングが主体でしたから、ミノワさんの方向性には合いそうですね。


ミノワ う〜〜〜〜〜〜ん、どっちもどっちですかねぇ。
 

――ミノワマンの理想は高くて厳しい!(笑)。


ミノワ でも、まだ横浜のほうは、プロレスの原点となるレスリングを中心とした練習でしたので、自分のスタイルには近かったと思います。あとは東京のほうはピーズラボというアマチュアコースが始まっていたので、練習が終わったらそのお手伝いをしなきゃいけなかったんです。当時の横浜はアマチュアの指導がなかったので、夜は自由にトレーニングができて自分の時間が取れましたね。


――話を聞くかぎり、ミノワさんってパンクラスの中でも浮いた存在だったんですかね。


ミノワ だったんですかねぇ。「減量すれば一階級落とせるのに」とかいろいろと言われたんですけど、意味がわからなかったですね。「……何を言ってるのかな?」って。


――周囲もミノワさんに「何を言ってるのかな」と思ってた可能性が……(笑)。


ミノワ そうなんです。「あ、みんな自分と同じ考えじゃないんだ……」とだんだんと気づいてきたんですね。でも、理解はできなかったです。


――パンクラスを離脱したのは、そんな方向性を含めて煮詰まっていたからですか?


ミノワ 外の世界を見たかったんです。とくに海外。海外に行くなら「いましかない!」と思ってましたし。
 

――パンクラス末期は他団体のリングに上がって名前を上げましたよね。パウロ・フィリオ、ヒカルド・リボリーオというブラジル人ファイターと激闘を繰り広げて。


ミノワ あのへんで柔術に興味を持ったんです。「柔術ってなんなんだろう……?」って。


――パンクラスで柔術は取り組んでなかったんですか?


ミノワ 横浜では柔術をやってる選手はいなかったんですね。


――2000年前後のパンクラスだと北岡(悟)さんくらいですよね。


ミノワ ああ、そうですね。でも、彼は東京でしたし。オモプラッタとかよくわからなかったんですね、返し方とか。


――知らないからこそ興味が出てきた。船木さんもヒクソン・グレイシーに敗れて引退されましたし、柔術は脅威的な存在でしたね。


ミノワ あのときは絶対に船木さんが勝つと信じてましたし、「プロレスこそが最強だ!」と思ってましたから。「なぁーにが柔術だ!?」って敵だと思ってましたね。


――じゃあ船木さんの敗戦は……。


ミノワ もうショックでしたねぇ。あのときは何人もセコンドには付けなかったので、自分は客席で見てたんですけど、悔しくて「プロレスをナメるな!」ってあのままリングに乗り込みたい感情でした。


――そういった悔しさから逆に「柔術とはなんなんだろう?」と。


ミノワ やっぱり結果を出してますし、強いですし。柔術を学びたい気持ちが出てきましたね。プロレスラーの強さを証明するために、柔術を知って攻略したいなという。


――そういう理由なんかもあってブラジルに渡ったんですね。


ミノワ 柔術がきっかけだったわけじゃなかったですけど、海外に行きたいという気持ちは強かったですよね。このままパンクラスでの試合が続くんだなって思うと……。


――モチベーションが上がらない。あの当時のミノワさんってパンクラスでやり尽くしちゃったところがありましたよね。


ミノワ それでブラジリアン・トップチームで練習することになったんですね。


――それはブラジル現地のホテルに泊まってトップチームの道場に通う感じですか?


ミノワ いや、3人住めるような家があって。自分は倉庫みたいな2〜3畳程度の部屋でしたけど、ベッドが置いてあって。
 

――ハングリーですねぇ。


ミノワ そのときはなんでもよかったんですよね。その部屋で寝起きしてブラジリアン・トップチームの道場で練習して。


――当時のトップチームは錚々たるメンツですよね。


ミノワ マリオ・スペーヒー、ムリーロ・ブスタマンチ、ノゲイラ兄弟、ヒカルド・リボリーオ、ヒカルド・アローナ……いっぱいいましたね。柔術の黒帯が50人くらいいましたから。


――黒帯50人!(笑)。


ミノワ 自分は白帯を巻いて練習してましたけど(笑)。柔術は週2、グラップリングも週2、総合が週3のペースでやってましたね。


――練習してみていかがでした?


ミノワ レスリングのような倒し合いはなかったですね。ガードからスタートいう感じで。マリオ・スペーヒーから「レッグロッグ、レッグロッグ」ってよく言われたんです。


――「ミノワはレッグロッグだ」と?


ミノワ はい。マリオ・スペーヒーにずっと言われてました。実際に柔術家と練習してわかったのは、レッグロッグが一番狙いやすかったんですね。上を取ってもガードがしつこくて超えられないんですよね。パスをしようとするだけで5分くらいかかっちゃうんで。


――パスを狙うんだったら……。


ミノワ 「もういいや、足を獲っちゃえ!!」って。


――なるほど!(笑)。もしかしてブラジルで足関節を開眼したところはあるんですか?


ミノワ それまでは得意技だった……というわけじゃないんですよね。結果を見ても、腕や首を獲る機会が多かったですし。トップチームで練習してみて、パンクラスの足関は世界トップクラスだなってわかったんです。パンクラスってヒールホールドが禁止になった時期があったじゃないですか。そのおかげでアンクルやヒザ十字の進化したんですよね。


――ヒールができないから、ほかの足関がレベルアップした。


ミノワ それでまたヒールが解禁されたじゃないですか。それでまたレベルが上がったんですよね。パンクラスには得意な人がいっぱいいましたので、そこまで自分が足関がうまいとは思ってなかったんですね。


――みんな上手だから自分がそこまで足関がうまいという自覚がなかったんですね。面白いなあ(笑)。

 

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