【無料記事】アジャ・コング、デビュー30周年記念インタビュー「全女はAKB48やジャニーズだった」

ⓒOZアカデミー女子プロレス


今年でデビュー30周年を迎えたアジャ・コング。80年代のクラッシュギャルズに憧れて全日本女子プロレス入りし、90年代に再び全女ブームを巻き起こした立役者のひとり。女子プロレス界の表と裏を知り尽くしたアジャ様の壮絶なプロレスラー人生を振り返ります! 全女の怖さとプロ意識に震える!!

 

――アジャさんは今年で30周年を迎えました。


アジャ やってるほうは気がついたら30年なんですけど。プロレスやめて結婚した後輩の子供が成人してますからね(笑)。そういう姿を見るたびに歳月を感じますよねぇ(しみじみと)。
 

――この30年のあいだ、アジャさんは必ず毎月1試合はしていたそうですね。


アジャ はい。そういうプロレスラーは世界を見渡してもいないんじゃないかなって。なのでギネスブックに申請しようかなと資料を準備しているところです(笑)。


――プロレスラーといえば、ケガがつきものですけど、どこか痛めていても毎月試合には出ていたってことですよね。


アジャ そうなりますね。全女(全日本女子プロレス)のときは「ケガをして休むことは恥」と教えられてきたので。指の一本二本の骨折はケガのうちに入らない。だから捻挫、脱臼、打撲はケガじゃない。


――ハードルが高すぎますね(笑)。一番大きなケガはなんですか?


アジャ 大きなケガというか、唯一欠場したのは盲腸なんです。地方巡業に行く日の朝に急性盲腸で病院に運ばれて、そのまま緊急手術。その1週間後に川崎で金網デスマッチがあったんですよね。タッグマッチでしたけど。
 

――その試合はブル中野&モンスター・リッパーvsアジャコング&バイソン木村ですね。


アジャ 会社は「盲腸?手術はするなよ。ちらしてこい」って言うんです。手術するとしばらく休まないといけないですから。
 

――盲腸よりも金網が大事って全女らしい(笑)。


アジャ ところが病院の先生は「ちらせる状況じゃない。このまま放っておくと死ぬよ」と。それで会社はしぶしぶ手術と入院を認めたんですよね。


――しぶしぶ(笑)。


アジャ ホント酷い会社ですよねぇ。手術が終わった翌日に会社の人間が病院に来て「いつ退院できるんだ?金網デスマッチが1週間後にあるんだぞ!」と言われましたからね(笑)。


――病人にかける言葉じゃないです(笑)。


アジャ 病院の先生から「抜糸もしていないし、2週間は退院できません」と言われたんですけど。仕方ないので「取材があるのでちょっと外出をさせてください。そんなに激しくは動かない取材なので」と嘘をついて……。


――病人が外出届けを出して金網デスマッチ(笑)。


アジャ それで試合に出たんですけど。コーナーから飛んだら相手に避けられて、そのとき手術した傷口が開いちゃったんですよ(笑)。


――もうすべてがおかしなことやってますね(笑)。それだけムチャをしてると、命の危険を感じたことはありませんでした?


アジャ う〜〜〜ん、試合中にマズいなと思ったことはあんまりないですね。ビデオなんかで見返したときに「あ、これは危なかったな」と思うシーンはあるんですけど。あ、でも、豊田(真奈美)と山田(敏代)と試合したときにコーナーからバックドロップで頭から落とされて、リング上でバウンドしたときに「……あ、これは死んだな」と思いましたね。


――うわあ……しかし、ムチャな技をやりますねぇ。


アジャ みんな、相手が私だと何をしてもいいと思ってるんですよね。


――アジャさんは頑丈だから、皆さん安心しておもいきりできたみたいですね。


アジャ そう!(笑)。でも「私も人間なんですけど!」って話で。危ない技を受けた瞬間に思うのは、ケガした選手をいっぱい見てきてるので、リハビリの大変さを知ってるんですよ。「リハビリは絶対に無理! あんなにつらい思いをするくらいならプロレスをやめたほうがマシ」って気持ちが強いから、なんとか必死に受け身を取るんですね。


――「大ケガしたくない!」という意識が働くんですね。


アジャ だから大きなケガをしないでこれたのかもしれないですね。それとやっぱり丈夫な身体に産んでくれた母親に感謝ですよね。大きな骨折が一度もないので。
 

――あの全女の闘いの中で大きな骨折なしは意外ですね。


アジャ 北斗(晶)さんは首の骨を折ってますし、みんな手足を折るのは当たり前みたいなところはありましたよね。


――手足を折るのはあたりまえ(笑)。


アジャ アバラにヒビが入ったことはあるんですけど、休むほどじゃないし。目に見えて酷かったのは、ブル(中野)さんがムーンサルトをやってきたときに、上から降ってきたヒザがまともに顔面に入って、目の周りがとんでもなく腫れ上がったんです。「これは絶対に折れてるだろうな……」って病院で診てもらったら「強度の打撲です」って言われて(笑)。


――頑丈すぎです!(笑)。つい先日メジャー3000安打を達成したイチロー選手もケガをしないことがあの偉業につながっていますよね。
 

アジャ ケガをしないことが一番ですね。ケガをするとほかの人間より遅れますし……ってケガはしてるんですけど!(笑)


――全女のケガ基準がおかしいだけ(笑)。子供の頃から頑丈だったんですか?


アジャ 骨折はしたことなかったです。運動神経もよかったし、身体も大きかった。小学1年のときから空手をやっていて、中学に入ってからはバレーボールもやって。


――空手はどういう理由で始めたんですか?


アジャ 母親が護身術として合気道を習わせようと道場に連れて行ったら、いま振り返ると合気道は理にかなってるんですけど、子供心に強そうに見えなかったんですよね。こんなものをやらされるのはイヤだなって。そうしたら、ちょうどその横で空手をやっていたので、子供にはそっちのほうがかっこよく見えたんです。バレーボールは仲の良い先輩がやっていたことと、ちょうどロス五輪女子バレーの中田(久美)さんが凄かったので始めました。


――アジャさんはアメリカ人とのハーフということで子供のときに酷いイジメにあったそうですが、母親が格闘技を習わせようとしたのはそういう理由があったんですか?


アジャ 親のほうにはあったかもしれないです。イジメられても精神的に強くなりなさい、と。保育園の頃から身体が大きくて、同級生より頭二つ分抜けていて。保育園の年少組なのに先生が年長組に間違えて入れるくらい(笑)。


――それくらい大きかった(笑)。


アジャ そんなんだから、ケンカは腕力が物を言うから必ず勝つわけですよ。そうすると「やっぱりハーフだから凶暴で……」みたいに言われるので、母親はガマンさせることをおぼえさせようとしたんですね。


――イジメはイヤになりませんでした?


アジャ いや、保育園の頃はそんなでもなかったですね。立川という土地柄、そういう子はたくさんいたので。


――米軍基地がありますね。


アジャ 小学校に入ったときですかね。入学式の日にクラスの担任から「前に来なさい」と呼ばれて「肌や髪の色が違ったりしますが、お父さんが外国人なだけでみんなと同じ日本人ですから仲良くしましょう」って説明して。そのときに「あ、自分はみんなと違うんだ」って思いました。先生としては何かトラブルになる前に言っておこうということだったと思うんですね。それでクラスの子なんかは先生にそう言われたから仲良くしようとなったんですけど。だから立川にいる頃はそんなに酷いイジメはなかったです。小学5年のときに昭島に転校してからですね。


――土地が変わると違いますか。


アジャ 立川と福生は基地がある場所なので、ハーフや外国人が多かったんですけど。あいだにある昭島はちょうどエアポケットだったこともあって「わけのわからない子が転向してきた!」ってなったんです。小学5年生って物心がつく歳だし、自分たちと違うものは排除しようってなりがちですよね。こっちもこっちで転校するのがイヤでイヤでしかたなかったから、いま振り返ると敵対心むき出しだったところもあるので。「こんな場所に来たくなかった」という態度をあからさまに出していたので、それは迎え入れる側もねぇ……。


――米軍基地勤務だったアジャさんのお父さんは、そのときはもう日本にはいなかったんですよね。


アジャ 私が5歳のときに帰国命令があってアメリカに帰りました。父親には優しくしてもらった記憶しかないですね。


――アメリカ帰国後、お父さんから連絡はあったんですか?


アジャ 全然なかったですね。父親が向こうに帰ってからいろいろとあったみたいで、証人保護プログラム制度で名前も住所もすべて変えて、別人となって生活を送っていたんです。だから生きてるあいだは連絡が取れなかったんですね。


――それは連絡のつきようがないですね。


アジャ 父親を探すために退役軍人の会に手紙を渡したんです。でも、証人保護プログラムの事情で向こうには渡らなくて、父親が亡くなったときにようやく遺族がまとめて受け取って。バミューダ諸島に異母兄弟の姉がいるんですけど、その旦那さんがビジネス関係で日本と付き合いがあったことで、私が日本のプロレスラーだってことを知ったんです。それでテレビ番組の企画として向こうの家族と会って、遺品を見せてもらったりしましたね。


――連絡が取れなかったことで父親に悪感情は抱きませんでしたか?


アジャ いや、アメリカに帰った時点で母親から「今日からお父さんはいません」と宣言されたので、そういうもんだと思いました。母親が一生懸命頑張って母親と父親の役割を果たしてくれたところはありましたし、お父さんがいないからイヤだっていう気持ちは湧かなかったですね。


――母子家庭だと経済的にも大変だったんじゃないですか?


アジャ 母親は私に不自由な思いをさせたくないと、もの凄く働いていましたので。だから貧しい思いはしたことはなかったですね。


――立派なお母さんだったんですね。プロレスを見始めたのはいつ頃ですか?
 

アジャ 3〜4歳くらいから見てましたね、男のほうだけでしたけど。母親も空手を習わせるくらいだから格闘技は嫌いじゃなかったし、家のテレビでプロレスを見てました。ガイジンさんがいっぱい出てたから全日本プロレスだっだと思うんですけど。
 

――女子プロレスは見てなかったんですか?


アジャ 女子プロレスがあるなんて知らなかったんですよ。小学校に入ったときくらいに友達のおねえちゃんがビューティ・ペア(ジャッキー佐藤&マキ上田)にハマっていて。家に遊びに行ったら「いまから面白いものをやるからね」ってテレビをつけると、男の人と女の人がリングの上で歌ってるんですよ。男に見えたのはジャッキーさんなんですけど(笑)。そうしたらプロレスの試合をやり始めて「あ、女の人もプロレスをやるんだ」って。


――そこから女子プロにハマっていったんですか?


アジャ いや、テレビでやっていれば見るって感じですね。その頃ってビューティ・ペアかピンクレディーが女の子に大人気だったんですよ。自分はどちらかといえばピンクレディーのほうが好きで、プロレスが好きだからビューティ・ペアも見てるって感じですね。


――そこまで大好きではなかったんですね。


アジャ そうですね。その頃は女子がプロレスをしてることをちゃんと理解できてなかったんです。男子のほうはもの凄く身体の大きい人たちばかりだったし、プロレスは怪物がやるものという認識で。最初は女の人がやってることがいまいち納得がいってなかったというか……。


――そんなアジャさんのアイドルとなる女子レスラーが出てくるわけですね。


アジャ それはクラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)ですね。ビューティ・ペアがいなくなって全女人気も下火になってたんですけど、昼間にテレビではやっていて。クラッシュギャルズを組む前から長与さんのファンだったというか、長与さんは空手着で入場するじゃないですか。自分は空手をやっていたので親近感が沸いたんです。でも、あの頃の長与さんは弱かったんで、あんまりテレビの試合に出てこなかったんですよ。「今日は長与さんが出るかな?」ってテレビを見ていた感じです。


――長与千種が気になる存在だった。


アジャ そのうちにクラッシュギャルズが結成されて、人気が上がっていって。そこからですね、大好きになったのは。


――クラッシュギャルズに憧れてプロレスラーになろうと思い始めたんですよね。


アジャ いや、好きでしたけど、プロレスラーになろうとは思ってなかったです。身体は大きかったし、母子家庭だったから、母親の知り合いが「お母さんを楽させるためにプロレスをやったら」なんて言われて。でも、自分は絶対にイヤだって。「なんで他人に言われてやるの?」と思ったし、プロレスは怪物がやるもんだから。


――プロレスは見るもので、やるものではないと。


アジャ でも、中学生になると進路を決めないといけないじゃないですか。動物が好きだったので獣医になりたかったんですけど、その頃には自分の頭のレベルもわかってきたので、獣医にはなれないな、医者は無理だと。何をやりたいかといえば、何もないし、このまま高校に進学してその先どうするの?と。 中学生なので当たり前かもしれないですけど、その先をどうしたらいいか何も考えられなかったんです。で、当時はプロレスを見に行くのは好きで、立川や福生で大会をやれば見に行って、後楽園ホールまで行きましたし。


――中学生で後楽園観戦されてたんですね。


アジャ あの当時のね、女子中高生はほとんどクラッシュのファンだったし、会場のお客さんも9割が女子中高生だったので。逆に男性の客が入れなかった。


――それくらい女子プロが世間に浸透したってことですねぇ。


アジャ いまでいうと、AKB48やジャニーズにハマるようなもんですよね。だって光GENJIの親衛隊長をやってる子が、クラッシュの親衛隊長を掛け持ちしてるんですよ(笑)。


――レベルがジャニーズと一緒(笑)。


アジャ 月曜日の19時からゴールデンタイムでテレビ中継されていたから、翌日の学校は友達とプロレスの話になるんですよ。どのアイドル雑誌にもクラッシュのことが載ってますし、お小遣いをためて後楽園ホールに行こうよ! となりますよね。


――それだけの人気があると、プロレスラーを目指す人間も多いですよね。


アジャ 自分と同じ世代の女子中高生は一度はプロレスラーになろうと思ったはずですね。いまでも同世代の人に言われますよ。「あのとき私もクラッシュギャルズになりたかったけど、書類選考で落とされました」って。 


――アジャさんもプロレス入りに進路を決めたんですね。


アジャ 自分を活かせる仕事をしたいなって考えたときにプロレスはいいのかなって思うようになって。


――お母さんには相談されたんですか?


アジャ 言いました。最初は軽く流されたんですけど、学校の進路相談でも「第一志望プロレスラー」って書いて出してたんで。先生は「せめて高校に行ってから」って反対で、母親は「1回だけテストを受けていい。でも、それでダメだったら自衛隊に行きない」と(笑)。


――自衛隊!?(笑)。


アジャ 自衛隊ならお金をもらいながら、いろんな資格や免許を取れると。


――お母さんはどうしてそこまで自衛隊を……。


アジャ 私を産んだ時点で39歳、高齢出産だったんです。そんなに長くは私のことを面倒は見れないから、早く手に職をつけてくれと思ってたんだと思います。私が成人するときには60歳になっちゃうので、女手ひとつで大学までは難しいですし、公務員になれば大丈夫だろう、と。


――現実的な考えを持ったんですね。


アジャ プロレスラーか自衛隊の二択だったんですよ。私は自衛隊がイヤだったので(笑)、なんとかしてテストに受からないといけないと思いましたね。


――全女のテストに落ちたら自衛隊入りですもんね(笑)。


アジャ 空手の練習をいっそうやるようになりましたし、毎晩走ったりトレーニングをして。当時の全女は年に1回、入門テストがあって、履歴書を送ったら書類選考は通過して。


――入門テストはいつあったんですか?


アジャ 1月15日です。その当時は成人の日で、河田町にあった頃のフジテレビのGスタジオで試験があったんです。フジテレビで一番大きいスタジオに全国から女子中高校生が500人集まって。


――入門テストに500人! 道場だと捌き切れない人数ですね……。


アジャ 自分たちが受けた前年が書類応募だけで2000人、スタジオで試験を受けたのが700人。スタジオを2つ使ってやってましたから。


――凄いなあ(笑)。


アジャ 自分の年は書類応募だけで2500人もいたんですけど。前年に700人も見ちゃって疲れたんでしょうね。500人に減らされて(笑)。


――さすが全女、適当ですね(笑)。


アジャ そのテストの面接官にクラッシュギャルズがいたんです。クラッシュが見たいがために応募する子もいたんですよ。


――クラッシュギャルズに会うためにテストを受ける。


アジャ だからそんな大人数が来ちゃうところもあるんですけど。


――試験はどんな内容だったんですか?


アジャ まず体力審査ですね。腕立て、背筋、うさぎ跳びをやって。そこで良かった人間だけが2次審査で縄跳びをやったりして、3次審査も体力審査、20人くらい残った4次審査は特技披露。最終審査の面接まで残ったのは15人くらいですね。


――面接官は誰なんですか?


アジャ クラッシュにジャガー(横田)さん、会社の人間、フジテレビのプロデューサーがいて、その場で合否が伝えられるんです。合格者には赤い全女のジャージを渡されて、幸田シャーミンさんが司会をやっていたフジテレビのニュース番組「FNNスーパータイム」に生出演したんですよ。「この子たちが今年の全女の試験に受かりました」と紹介されて。


――なんというメジャースポーツ!(笑)。


アジャ あのとき番組に出たのは、工藤(めぐみ)、コンバット(豊田)、バイソン(木村)とかですね。クラッシュギャルズに挟まれながら紹介されるから、一瞬とはいえ全国放送なので、翌日学校に行くと大騒ぎになるんですよ(笑)。


――スーパーアイドルのタマゴですもんね(笑)。


アジャ みんなが囲んでくるから、下駄箱から走って逃げて職員室に避難しましたからね(笑)。


――試験は受かる自信はあったんですよね。


アジャ 体力的には自信はあったし、自信がなかったら受けなかったので。


――テスト生で印象に残ってる方はいましたか?


アジャ ダイナマイト関西は同じ年に受けて最終面接まで残って落ちたんです。関西は前年も落ちたんですけど、ウエイトレフティングかなんかをやっていて、ゴッツい身体をしているなあとおぼえてるんですけど。


――関西選手はジャパン女子でデビューしますけど、狭き門だったんですね。


アジャ  合格はしたけど、私はまだ中学生だったので卒業してから入ってくださいということで。3月には全女の寮に入れるから、会社があらためて連絡するという話だったんですよ。3月10日前後に卒業式があったんですけど、全然連絡がないんですよね。おかしいなと思って、20日頃にこっちから連絡したら「ほかの人間は寮に入ってる。来ないからやめたのかと思った」と。そこで初めて全女のいい加減さがわかりましたけど(笑)。


――入門前にデタラメの洗礼(笑)。


アジャ すぐに荷造りして、母親と一緒に全女の事務所に行ったんです。そこで初めて今後の説明を受けて。練習生は1年間は寮住まい。寮費5000円ですけど、月々給料として5万円いただける。手取りで45000円ですよね。最初の月の分ということで45000円をもらって、中学生にとっては大金じゃないですか。何もしなくても大金がもらえる。なんていい会社なんだって思っちゃったわけですよ、当時は(笑)。


――「当時は」(笑)。


アジャ  全女の自社ビルは1階に道場があって、2階が事務所で、4階に寮があるんですね。入門テストの合格者は1人辞退して7人だったんですけど。寮には私以外に9人にいるんです。「なんで?」と思ったら2次募集で入った人たちだったんです。それがKAORUと高橋(美華)、(天田)麗文ですね。


――寮はどんな間取りなんですか?


アジャ 6畳の部屋が4部屋あって、2人、2人、2人、4人。4人部屋は二段ベッドなんです。私は最後に入ったから二段ベッドの上しか空いてなくて。


――練習生はどんなスケジュールで動くんですか?


アジャ 朝10時から道場で練習があるので、9時過ぎに道場に降りて掃除をして、9時50分頃に準備運動を始めて、コーチのジャガーさんの到着を待って。10時からランニング、基礎体力、受け身の練習。昼休憩は12時から13時までの1時間くらい。13時から16時まで受け身を中心とした練習ですね。


――基本は受け身の練習なんですね。


アジャ はい。受け身を取らなきゃプロレスはできないと徹底的に受け身の練習をさせられて。ほかのみんなは自分より一週間早く入ってるから、初歩の初歩の受け身は取れるんです。


――先輩レスラーのお世話はしないんですか?


アジャ 練習生はプロじゃないので、巡業に出ませんし、先輩に接することもないんですね。後楽園ホールの大会だけは売店の手伝いはしたんですけど、控室には入れなかったです。上の選手たちも練習生のことは「お客さん扱い」で、怒られることもなければ話しかけられることもない。


――プロにならないかぎり接触はできなかったんですね。


アジャ プロになるには年に3回あるプロテストを合格しないといけないんです。最初のプロテストが6月くらいかな。それはちゃんと受け身が取れるようになったのかをテストするもので。そこで合格して初めてプロになって、上の選手と接触できるようになれるし、試合に出られる。プロテストに落ちた場合は練習生のまま。1年のうちに受からなかったらクビですね。


――1年間という猶予期間なんですね。


アジャ とにかく入門したら体力をつけてプロテストに受かることしか考えてなかったですね。ジャガーさんに「プロテストに受からないと何も始まらないよ」と言われてました。


――アジャさんの同期は全員プロテストを通過できたんですか?


アジャ 最終的には全員デビューしました。デビューしても半年、1年後にはやめていく子がパラパラ出てきましたけど。


――練習生時代は女子プロ特有の厳しさは体験しなかったということですよね。


アジャ 全然全然。道場と事務所が一緒だったんで、巡業があるときは先輩方は事務所に来るんですよ。そのときくらいですよね、先輩の近くにいられるのは。ファンの子たちが大騒ぎしながら事務所を取り囲む光景を眺める優越感はありましたね。


――ああ、事務所周辺の追っかけは凄かったんですよね。


アジャ 目黒の自社ビルに毎日何百人ものファンが出待ちしてるんですよ。近所迷惑だということで何回警察が来たかわからない(笑)。


――道場の練習も先輩とは別なんですか?


アジャ 道場で合同練習ってしないんですよね。全女は試合が多すぎたんで、先輩たちが道場に来るヒマがないんですよ。ほぼ1年間、巡業に行ってますから。年間250から300試合はやってますから。


――全女はどこかに空き地があれば興行を打ってましたよね(笑)。


アジャ 体育館でやるほうが少なかったんですよね。「バス停そば特設リング」ってあるけど、そのバス停が探せないとか(笑)。


――バス停そばプロレス(笑)。


アジャ 地元の人が知らない場所でやるときがありましたからね。地元の人間が知らない場所って本当に誰か住んでるの?って(笑)。


――先輩が道場に来ないということは、ちゃんこもないってことですよね。


アジャ はい。ちゃんこはないです。新人は寮生活しないといけないんですけど、会社からお米だけ支給されるんです。でも、おかずは自分たちでやりくりしなさい、と。


――そのお金は会社から出るんですか?


アジャ それが出ないんです。


――ええええ?


アジャ 45000円の給料からやりくりしきゃいけない。45000円もらえてラッキーじゃなかった(笑)。練習生10人いたんで、ひとり1000円ずつ集めた1万円でやりくりしてましたね。当番制でご飯を作って。


――月ひとり1000円の予算って安すぎませんか?(笑)。


アジャ いや、実質1食なんですよ。朝は練習があるから食べないですし、昼も練習で疲れ過ぎて食べれないんですよ。でも、何か食べないと倒れるから近所のスーパーに行って無理やり口に入れるだけ。ちゃんと食べるのは夜だけですね。


――それでもムチャですよね(笑)。ほかに寮のルールはありましたか?


アジャ 夜10時以降は外出禁止ですね。プロになる前は土曜日は半チャンで日曜日の練習も休みなので、実家に帰れたんです。でも、プロになったあとは「先輩たちが巡業に言ってるあいだにお前ら何をしてるんだ?」ってことで巡業に置いていかれても実家には帰れない。


――プロになったあとも寮住まいなんですね。


アジャ 1年間は寮住まいです。1年経ったら次の新人が入ってくるので追い出されるんですけど。


――居座ることはできないんですね?


アジャ できないですね。強制的に追い出されます。プロになると45000円だった基本給が7万円に上がるんですよ。寮費を引かれると65000円。試合のギャラは勝てば5000円、負けると3000円ですね。


――全女前座は「押さえこみルール」の試合ですね。


アジャ はい、そうです。


――「押さえこみルール」は実力至上主義的なルールで、ほかのプロレス団体には見られない特殊なルールですけど。「勝ったら5000円、負けたら3000円」というシステムだと、勝負論がさらに強くなりますよね。


アジャ その当時は「プロレスってそういうもんだ」と思ってましたよね。負けると3000円ですし、勝たないと次の試合が組まれないんですよ。勝ってる子は月20〜30試合くらいやれる。だから基本給7万と試合のギャラを合わせて2O万円くらいもらえる。寮を追い出されても、ひとり暮らしできるわけですよね。


――でも、勝てない選手は……。


アジャ 最悪の場合、基本給70000円と、負けたときのギャラ1試合3000円、合計73000円だけです。


――完全実力主義なんですか……。アジャさんは稼げたんですか?

 

その△紡海

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